こんな方におすすめ
- 医療や病院に対して疑問を持っている人
- 家族のがん治療に悩んでいる人
- 「最期まで自分の意思で生きたい」と考えている人
今回は「がん治療」について、僕なりの経験を踏まえて率直に語ってみたいと思います。
少しセンシティブな話になりますが、健康や医療をどう捉えるか――これは誰にとっても避けて通れないテーマです。
昨年、僕は急性膵炎を発症し、一時は膵臓がんの疑いまでかけられました。MRI検査の結果は幸い陰性。しかし、「がんの可能性を告げられる」という体験を通して、改めて医療とは何か、病院とは何を目的にしているのか、深く考えさせられました。
その背景には、2015年に上咽頭がんで亡くなった母の存在があります。母の闘病生活とその最期を見届けたことで、僕は“医療の裏側”に強い疑問を抱くようになったのです。
がん治療を「信じられなくなった」きっかけは母の闘病
母ががんの診断を受けたのは2015年の秋。
医師から「上咽頭がん、ステージ3」という言葉を聞いたとき、家族全員が頭の中が真っ白になりました。
母はもともと体が弱く、子どもの頃から「いつもどこかが悪い人」という印象がありました。体重は一般女性の半分ほどしかなく、骨と皮ばかりの体。食も細く、栄養状態も決して良くはなかった。それでも、なんとか65歳まで生き抜いたこと自体、母の生命力の強さだったのかもしれません。
しかし、そんな母に医師が提示したのは、「手術」「抗がん剤」「放射線治療」という定型的な三つの選択肢だけでした。
僕はその瞬間に、強烈な違和感を覚えました。
――この人に、そんな過酷な治療が耐えられるのか?
医師はまるでマニュアルを読むかのように淡々と説明を続け、「やるしかありません」と言い切った。その表情には、人間としての温度が感じられなかった。
僕は納得できず、自分で治療法を探し始めました。インターネットで「体に優しいがん治療」「代替療法」といったキーワードを必死に検索し、ガンマナイフやサイバーナイフ、免疫療法などの情報を集めました。名古屋まで足を運び、少しでも母の負担を減らせる方法を求めて奔走しました。
結果として、どれが正しかったのかは今でも分かりません。ただ一つ言えるのは、「少なくとも僕は母のために本気で考え、動いた」という事実です。
一方で、地元・山口の病院の対応は最悪でした。
セカンドオピニオンを申し出た途端、担当医の態度が豹変。まるで「裏切り者でも見るような目」で僕を見た。
この経験を通じて、「病院とは何のためにあるのか」という疑問が、僕の中で確信に変わっていきました。
母の命を救えなかった悔しさと同時に、「もう病院は信用できない」という思いが深く刻まれた瞬間でした。
医療の本質は「救うこと」ではなく「仕組みを回すこと」
もちろん、僕はすべての医者を否定しているわけではありません。
中には使命感を持って、真剣に患者と向き合う医師もいます。
でも現実として、そうした人は少数派です。
僕が見てきた多くの医療現場は、あまりにも「効率」と「採算」に支配されていました。
実は僕自身、病院の警備員として勤務していた時期があります。
そのときに見た光景――それはまさに“人間の流れ作業”でした。
朝から晩まで続く外来、途切れない手術。
患者の名前よりもカルテ番号が優先され、表情のないまま淡々と業務をこなす医師たち。
患者は“人”ではなく“ケース”であり、治療は「やること」自体が目的になっているように見えました。
そうした現場で、誰が本当に患者の命を思って動いているのか。
冷静に考えれば、そこに「構造的な問題」があると分かります。
病院は、治療という名のもとに点数(診療報酬)を稼ぎ、その仕組みで成り立っています。
だから、「治療すること」自体が目的化してしまう。
結果として、治療が患者の寿命を縮めても、誰も責任を取らない。
医師も、病院も、そして制度そのものが「自分たちの存続」を最優先しているようにしか見えませんでした。
そう思うと、医療というシステムそのものに対して“信じる”という感情を抱くことは、僕にはもうできません。
僕の結論:「がんになっても治療は受けない」
急性膵炎を発症した昨年、僕は一度だけ病院に助けられました。
あのときは本当に死を覚悟するほどの痛みで、病院に行く以外の選択肢はなかった。
その点については、今でも医療に感謝しています。
しかし、がんのように長期戦になる病気であれば、僕は迷わず“治療を受けない”という選択をします。
理由は単純です。
「延命」よりも「尊厳」を選びたい。
抗がん剤や放射線によって命を削るより、自分の免疫を信じたい。
僕は、母の苦しむ姿を間近で見て、「治療が命を延ばすとは限らない」という現実を突きつけられました。
そして今は、近藤誠さんの『がんもどき理論』などを再読しながら、「本当に医療は正義なのか」という問いに再び向き合っています。
確かに、医療行為には即効性があります。
僕の急性膵炎がそうだったように、「今すぐ命を救う」場面では大きな意味を持ちます。
でも、がんのような慢性疾患では、「延命」や「生活の質」という観点から見たとき、治療の副作用が幸福を奪うケースが多い。
それなら、僕は「自然の流れ」に身を任せたい。
病院に通い、数字やデータに一喜一憂しながら、恐怖の中で生き続けるよりも、自分の心が穏やかでいられる選択をしたい。
それが僕なりの“生き方”です。
まとめ
がん治療は、決して「正解」ではありません。
それは人によって、人生によって、価値観によって違う。
ただ、医療の裏にある仕組みや現実を知った上で、「どう生きたいか」を自分で決めること。
それこそが本当の意味での“選択”だと僕は思っています。
母の死と自分の経験を通して、僕は「医療を信じない」という結論に至りました。
それは反発ではなく、覚悟です。