こんな方におすすめ
- 身近な人やペットの死を経験し、「延命」について考えたい方
- 「生きる」と「生かされる」の違いを感じたことがある方
- 医療の在り方や、命の尊厳について自分なりの答えを探している方
人間も動物も、命あるものには必ず終わりがある。
それを頭では理解していても、実際に「別れ」を目の前にしたとき、心は思った以上に動揺し、現実を受け止めきれないものです。
最近、知人の愛犬が16歳で亡くなったという知らせを受け、僕は改めて“命”や“死”について深く考えさせられました。
この犬は数週間前まで懸命に生き続けており、治療を受けながらも家族の手の中で最期を迎えたそうです。
僕自身も10年前に母をがんで亡くした経験があり、「生かすとは何か」「治療とは何か」「延命とは何か」という問いが、今でも心の中で繰り返し浮かびます。
今回は、その愛犬の話と母の最期を通して、「延命治療の意味」と「命の尊厳」について、僕なりの考えを記してみたいと思います。
「延命治療」を再考したきっかけ
知人の彼女が飼っていたダックスフンドは、今年で16歳。人間の年齢に換算すれば80歳を超える高齢でした。
年齢を考えれば、いつかその時が来ることは覚悟していたと言いますが、実際にその瞬間を迎えると、頭では分かっていても、心が追いつかないものです。
彼女はその犬を家族の一員のように大切にしており、最期まで手を尽くしました。
体調を崩したとき、獣医師の提案でゴールデンレトリバーの輸血を受けるという、非常に珍しい治療を行ったそうです。
輸血後、一時的に元気を取り戻したものの、それはほんの束の間。最終的には静かに息を引き取りました。
僕はこの話を聞いたとき、「それは治療だったのか、それとも延命だったのか」と考えずにはいられませんでした。
もちろん、家族としてできる限りのことをしたい気持ちは痛いほど理解できます。
けれど、輸血や人工呼吸のような“時間を引き延ばすための処置”が、本当に動物や人間にとって幸せなのか——そこには大きな問いが残ります。
命を延ばすことが目的になってしまうと、その時間が苦痛に変わることがあります。
ペットの場合、言葉で「もう頑張れない」と伝えることができない分、飼い主が「どこまで治療を続けるのか」という決断を下さなければならない。
これは非常に残酷な選択であり、同時に“命とどう向き合うか”という根源的な問題でもあるのです。
母の最期に学んだ「選択」の重み
僕の母ががんと診断されたのは、今からちょうど10年前の秋でした。
医師からはステージⅢ、余命3年と宣告されましたが、結果的には9ヶ月で旅立ちました。
母はもともと体が小さく、体力も免疫力も極端に低い人でした。
食も細く、ほんの少し食べただけで疲れてしまう。そんな母に、放射線治療や抗がん剤が耐えられるはずがないと、僕は直感的に感じていました。
実際、医師から勧められた「通常の放射線治療」では副作用のリスクが高く、体がもたないだろうと思ったのです。
そこで僕は、体への負担が少ないとされる「ガンマナイフ(ガンマロボット)」の放射線治療を選択肢として検討しました。
しかし、それでも母の体には重すぎる。
僕は悩みに悩んだ末、「治療を受けない」という決断を下しました。
これは息子として、本当に苦しい選択でした。
母自身が望んでいた「穏やかに過ごしたい」という気持ちを尊重し、最後まで家族のそばで過ごしてもらうことを選びました。
結果として、母は静かに、そして苦しみの少ない最期を迎えることができたと思います。
もちろん、「あの時、違う選択をしていたら…」という後悔がないわけではありません。
けれども、母の安らかな表情を思い出すとき、「治すことよりも、苦しませないことを選んで良かった」と今でも感じます。
人は、いつか必ず終わりを迎えます。
その時に何を優先するのか——命の長さなのか、穏やかな時間なのか。
僕にとって母の最期は、「命の尊厳を守るとはどういうことか」を教えてくれた、かけがえのない経験でした。
命の尊厳と医療の境界線
延命治療は、一体誰のために行うのでしょうか。
本人のため、家族のため、あるいは医療機関のため?
僕はこの問いに明確な答えを出せません。
しかし、現代の医療が“命を救う”という本来の目的から少しずつずれてきているように感じるのは確かです。
医療は本来、人を助けるためのものであり、痛みや苦しみを軽減するためのものです。
ところが、今の医療現場では「延命」そのものが目的化されている。
患者の生活の質(QOL)よりも、数字上の生存率や治療件数が重視される。
そして、その裏では多額の医療費が動き、病院が経済的に潤う仕組みになっている。
僕にはそれが、命を“商品化”しているように見えて仕方がないのです。
確かに、西洋医学は急性期の治療や救命には絶大な力を発揮します。
たとえば外傷や感染症、心臓発作など、命の危機に瀕した場面での医療行為は、間違いなく人を救います。
しかし、慢性疾患や老化といった“自然の流れ”に抗うような治療は、本当に必要なのでしょうか。
僕は、無理やりに命を引き延ばすことが、必ずしも“生きる”ことにつながるとは思いません。
むしろ、身体を痛めつけ、心を消耗させ、本人も家族も苦しむことが多い。
「死なせないための医療」ではなく、「穏やかに生かすための医療」こそ、これからの時代に必要だと強く感じています。
まとめ
命を救うことと、命を引き延ばすことはまったく別のものです。
延命治療の名のもとに、本人の苦しみを増やすような医療が行われている現実を、僕たちはもっと真剣に考えなければなりません。
犬の輸血も、母のがん治療も、それぞれに“愛”と“願い”が込められていました。
しかし、最期の瞬間に本当に必要なのは、薬や機械ではなく、「そばにいること」なのかもしれません。
命には限りがあります。
だからこそ、どんな最期を迎えたいか、どう生きたいかを、今のうちから一人ひとりが考えるべきだと思います。